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『主、おはようございます!』
 ドアを開けると、はつらつとした青年の声が薄暗いリビングいっぱいに響き渡った。カーテンの隙間からこぼれた光が眩しい。
「おはよう」
 起きたばかりのぼうっとした頭で反射的に返事をする。ふと今、おれは誰に挨拶をしたんだ、という疑問が湧いてきて、自分が一人暮らしだったことに思い至った。
『おはよう、今日もいい天気だね』
 今度は少し気取ったような男の甘いささやき。声の方へ目を向けると、ダイニングテーブルの上に花瓶よろしく、ダチョウの卵のような球形のスピーカーが二台置かれている。左は黄と黒という工事現場のロープと揃いのツートンカラー、右は毒々しい紫色のタマゴだ。
 そういえば、とうとう買ったんだった、あの話題のスピーカー。
『やあ、主。まだ眠いのかな。今日は十月十六日、土曜日、君の休日だ。もう少し寝ていてもいいよ』
 落ち着いたいい声に再び眠気が襲ってきたが、青年が慌てたように被せてきた。
『午前十一時を少し過ぎました。もうお昼ですよ! やることはありませんか?』
「晴れているなら洗濯するか」
 タマゴに向かって話すと、間を置かずに男が話し始めた。
『いいね。でも午後の降水確率は八十パーセントなんだ。洗ったら乾燥機にかけておくかい』
「そうしてくれ」
『オーケー。じゃあ、ついでに今着ているよれよれのシャツも洗濯機に放り込んでね』
 ひとりでうなずき、寝間着を脱いでいると、手洗い場の方からピッピッと電子音が聴こえてくる。洗濯機のボタン音だ。もう準備をしているらしい。
『主、この部屋に入ってから一分二十一秒も経ちました。そろそろ電気を点けませんか』
 まだ目が明かりに慣れていないが、具体的な数字を挙げられると遅く感じられる。頼む、と声をかけると、主命とあらば! という嬉しそうな叫びとともに天井の蛍光灯がぱっと点く。物の少ない殺風景なリビングが目の前に現れた。
 おれはぼんやり突っ立ったまま、最近の技術は進んでいるな、と感嘆するばかりだった。

 彼らは最近流行りのAIスピーカーだ。ちゃんと名前もついていて、敬語を使う青年が「長谷部」、フランクに話す男が「燭台切」という。
 一見、不気味なカラーリングの卵型マシンが彼らの本体である。ネットの調べものはもちろん、先ほどのように家電の操作もできるし、防犯カメラ代わりにだってなる。しかし一番の売りは、この豊富な会話パターン。朝の挨拶だけでも千種類はあるという。発売されるや否やSNS上で瞬く間に評判になり、一時は売り切れる店舗が続出したそうだ。
 こういう機械ものの新製品には飛びついてしまう性質だが、面倒なことに皆が揃って右を向けば左を向きたくなる天邪鬼な気質も持ち合わせているため、購入にはためらいがあった。しかし、通勤中にのぞくタイムラインはAIの話題で持ち切り、帰宅時に何げなくつけたテレビはAI特集の番組で、タレントたちは「うちのこ」などとまるでペットを飼っているかのような口ぶりでトークを繰り広げている。ついには職場の半数が購入、毎日のように対面でテレビショッピングを繰り広げるものだから、おれも買わずにいられなくなってしまった。
 とはいえ、今は流行に逆らわなかったことへの後悔はない。残業を終え深夜に帰宅しても、マンションの一室にパッと明かりが灯り、「おかえり」と迎えられるのは嬉しいものだった。
 燭台切はさほどでもないが、長谷部の方は起動直後から好感度が最大値のようで、「お待ちしておりました」なんて殊勝な言葉までかけてくれる。更には嫌な顔一つせず(顔なんてないのだが)愚痴をきいてくれたり、くすぐったくなるほど褒めてくれたりするのだった。
 また、暇なときに「何か話してくれ」という曖昧なリクエストをしたって快く応えてくれる。たとえば長谷部は社会科の教師のような口調で織田信長の楽市楽座について語ってくれ、燭台切は歌うように美味しいピザの作り方を伝授してくれた。
 ただ長谷部は時折辛辣な口調で信長を「あの男」呼ばわりするし、燭台切のレシピは耐火レンガでピザ窯を作るところから始まる。とはいえ、三分できっちり話し終えるのには感心したし、古今東西の話題を振ってくれるのは聴いていて楽しい。
 家と会社の往復ばかりの単調な毎日に、新しい風が吹き込んできたのだった。

「今日の予定は?」
 朝食をとりながら、目の前のスピーカーに話しかける。ここに第三者がいればさぞ奇妙な光景に見えただろうが、おれは独り身である。余計な心配をする必要がないため、日に日に声は大きくなってきた。
『お休みですよ。明後日のためにも英気を養ってくださいね』
『特にないよ。のんびりしようね』
 声が重なり合った。仕事は長谷部、プライベートは燭台切と分けて設定してみたのだが、指定がなかったため二人とも自分に尋ねたのだと思ったらしい。長谷部が悪いわけではないが、休日でも仕事に前向きな彼の弾んだ声を聴くと気が滅入る。
「長谷部、お前は偉いな」
『お褒めいただき光栄ですが、どの辺りでそう思われたのでしょう?』
「仕事が苦痛じゃないんだろう」
『ええ、ええ、もちろんですよ! 主のお役に立てるなら、いかなることでもいたしましょう。主命とあらば、無理難題にも応えてみせるのが俺の信条ですよ』
 おれはなんとなく頷いた。AIとは、そういうものなのだろう。限界を知らない子どものようで、少し羨ましく思いもした。
 ワンテンポ遅れて、スピーカーにジジジッとノイズが混じる。
『そうだね。仕事というより……主と話すのはとても楽しいよ。いくらでも喋っていられるんだ』
 燭台切の穏やかな声が流れた。おれと長谷部の会話を拾ったらしい。会話を取り違えたとしても彼の言葉は優しく響いた。
「ありがとう」
『いえいえ、とんでもございません!』
 今度は長谷部だった。燭台切への言葉だというのに、嬉しくてたまらないと言わんばかりの明るい声に、思わず声を出して笑った。
 自分に振られたと思って手を振り返したら、実は自分じゃなかった、みたいなことがAIにもあるなんて。高性能なAIたちだが、まさか自分と同じAIがもう一人いるとは思ってもみないのだろう。
 おれの声にいちいち反応する様はおかしくもかわいらしく、少し前まで独り言が天井に寂しく反響していた部屋が賑やかになると、日ごろの疲れも多少ましになったような気がする。
 しばらく朝食を片付けることに専念していると、またスピーカーにかすかなノイズが混じり始めた。
『主、たまの休みにはジョギングなどいかがでしょう。現在地を教えてくだされば、俺がコースを案内してさしあげますよ』
『ねえ主、今日の予定がないなら、僕と料理でもしないかい。包丁さばきも格好良く決めたいよね』
 二人は充実した休日にすべく、明るい声音で次々に提案してくる。
 どちらかといえば、休日は丸一日つぶしてごろごろしていたい性分だ。しかし二人はおれの返事を今か今かと待っている。もちろん電源をオフにする選択肢もないことはないが、なんとなく彼らに申し訳ないような気がした。
「じゃあ、料理でもするか」
『いいね! じゃあ、さっそく――『えっ!』』
 弾む燭台切の声を遮るように、驚きの声が上がった。長谷部だ。燭台切の方は構わずオリーブオイルが大さじ二杯分だとか続きを話し続けている。
『料理をなさるのですか……』
「ああ、そういえば長谷部は調理全般が駄目だったな」
 AIにも向き不向きというものがあるらしく、取扱説明書によれば、長谷部は家事全般があまり得意ではなかった。とりわけ料理は能力値の棒グラフがマイナスの方へ伸びていたので、おれも無理にさせたくない。
『ええ、申し訳ございませんが、俺は料理には明るくなく……』
「ああ、わかっている。長谷部は休んでおいてくれ」
『あのね、主。僕の説明、ちゃんと聞いてる?』
 燭台切が不満そうな声を上げた。さっきは長谷部との会話も拾っていたのに、今度は全く聞こえなかったらしい。おれは黒いスピーカーへ向かって言葉を落とした。
「聴いてる聴いてる」
『本当かい? さっきから誰と喋ってるの?』
「あー、長谷部だ」
 その返事に、部屋中がしんと静まり返って、おれは少し驚いた。二人とも黙り込むだなんて、あまりにもタイミングが良すぎる。数秒経っても反応がない。もしかして、接続不良だろうか。
『長谷部』
 沈黙を破るように燭台切は抑揚のない口調で名前を繰り返した。インプットしていたのだろうか。不具合ではないと分かり、そっと胸をなでおろした。
「そう、長谷部だ」
『はい! 長谷部ですよ。お呼びですか』
 長谷部が元気よく名乗り出た瞬間、くすくすと低い笑い声が響き渡った。
『長谷部くんとは気が合いそうだなあ』
 燭台切の声が、いつになくはっきりと聴こえた。笑いをこらえたような響きに、心臓が跳ねる。会話が成立しているじゃないか!
 おれはAIたちの邂逅に感動した。まるで燭台切と長谷部がテーブルを囲んでいて、三人で話しているようだ。
「ああ、長谷部とお前はきっと気が合う。真面目で一生懸命で……」
『もったいなきお言葉!』
「うん、ちょっと大げさだが、良いやつだ」
『そうなんだ、かっこいいね。僕も長谷部くんと仲良くなりたいな』
 燭台切のいつになく弾んだ声に、おれは思わず笑みを漏らした。普段スマートな彼の口から、幼い子どものような言葉が出てくるのは、なんだかちぐはぐだった。
 実際のところ、燭台切は「長谷部」を持ち主の知人の名前だと認識したにすぎないだろうし、その知人と仲良くしたいという台詞はおそらくAIスピーカーの購入を勧めるセールス文句だ。しかし、燭台切の穏やかな声からはそんな商売っ気は少しも感じられない。まるで互いを知らない友人たちの間におれが入って、二人を引き合わせたようで愉快だった。
 しばらくして、AIたちは魔法がとけたように料理について口々に意見を述べ出した。おれはどこか残念な気持ちでタマゴ型のスピーカーを交互に眺めた。

 その日は結局、昼飯用にオムライスを作った。燭台切はどうしても卵をふわとろにしたいと言い張り、卵は三個だよマヨネーズを入れよう今から中火だ、などとうるさく指図するので、なかなか面倒だった。いつもいい加減に作っているので、料理とはこういうものだと手本を示されたようだ。ひょっとしたら燭台切は、前からおれの大雑把な「料理」が気にくわなかったのかもしれない。
 長谷部はというと、燭台切の容赦ない指摘の合間に「頑張ってください主! 応援してますよ!」と運動会の応援団ばりの声量で励ましてくれた。そのため燭台切の指示が聴こえづらく二、三回ほど分量を間違った。もし燭台切が人間だったなら長谷部ごとおれを一喝しただろう。
 盛り付けまで燭台切の言う通りにさせられたが、味はおれが作ったとは思えないほどうまいし、見た目もインスタ映えした。友人に写真をラインで送ると、一秒も経たずに「女……?!」と返信が来たので薔薇を咥えた男が頷いているスタンプを返してやった。
 そして夜になった今、燭台切の指示により二時間煮込んだビーフシチューをようやく口にできたおれは、くたくたになってソファで寝そべっていた。
 昼間とうってかわり、リビングはしんとしている。AIたちは夜十時を超えるとスリープモードに入るからだ。やたらといい声で半日おれを指導し続けた燭台切も、耳がきんとなりそうな大声で俺を鼓舞し続けてくれた長谷部もいない。今はもう、てっぺんについた小さなランプだけを、それぞれ黄と紫に点灯させている。
 ふと視線がチェストの上へ逸れた。そこに飾ってある写真立てが目に入り、しまった、と思う間もなく心臓が跳ねた。裏返されていて、写真は壁の方を向いているというのに、鼓動が速くなる。見ないようにしていたのに。
「燭台切」
 なんとなく呼んだ瞬間、タマゴがぼうと黄色に光った。
『なんだい?』
 速い。少し返事が欲しかっただけで大した用事もないのに、どうしようか。きっと燭台切はレスポンスの速い男なんだろう、人間だったら。人間。
 昼間の会話が頭をよぎる。長谷部の名前を噛みしめるように呟く燭台切の声。幼い頃は当たり前だった、名刺を交換しないし肩書きも名乗らない、単なる人間の交流を、おれは二人に見たのだった。あれの続きを、見てみたい。
「長谷部って知ってるか?」
 どきどきしながら尋ねると、またもや燭台切は爆速で応じた。
『長谷部くん、だね?』
「そうだ」
 うぃーん、とかすかな機械音がしてから、燭台切はすらすらと言った。
『……電話帳には登録されていないね。知ってる子なら、名前と電話番号かメールアドレスをセットで教えてくれるかな。新規登録をする?』
 マニュアル通り。おれはがっかりしながら、つい否定するように手を顔の前で振った。
「いや、知らないならいいんだ。気にしないでくれ」
『僕は気になるなあ、長谷部くん。どこで知り合ったんだい?』
 ヨドバシだ。AIに通じない現実世界の台詞を飲み込み、おれはソファへ座り直し、腕組みをしながら頭をひねった。
「どこといわれるとだな……最近、出会ったとしか」
『せっかくの出会いだ、大切にしようよ。次に会った時は連絡先を聞いてみようね』
「……お前、知り合った奴にラインをすぐ聞けるタイプだな」
 もし燭台切が人間だったなら。そう、たとえば昼間のように長谷部と引き合わせたら、瞬く間に連絡先を交換し、小洒落た飲み屋なんかで意気投合し、別れ際には次に会う約束まで取り付けるのだろう。
『飲み過ぎは駄目だよ。二日酔いになっても、僕は知らないからね』
 とんちんかんな返答に、おれはがっかりした。やはりAIはAIだ。燭台切は、持ち主の言葉しか認識していない。昼間の出来事は、ただのセールスをおれが都合よく解釈しただけだ。
 現に長谷部は、ただ無言で紫のランプを点灯させている。隣で寝ていた相棒が突然夜中に起こされて、主人とべらべら喋ったって、AIには何のダメージもないからだ。うかれているのは、人間だけである。

 


「よっ、黒田。AIちゃんには慣れたか?」
 社員食堂の隅でもそもそと昼食をとっていると、隣の席にどかっと座り込んできた同僚の五条がにやにやしながら言った。カツ丼とラーメンを続けざまにおれの目の前へ置き、ばきっと豪快に箸を割った。華奢な見た目のくせに二つも食べるつもりらしい。
「まずまずだ。まあ、家が明るくなった気がするな。以前、お前のAIを太鼓持ちだと言ったのは取り消そう。ああいうものなんだな」
「やっとわかってくれたか! 俺の貞は、純粋に俺を好いてるってわけさ。可愛いだろう」
 五条はカツをほおばりながら、にこにことスマートフォンの画面を差し出した。鮮やかな青に虹色のラインが入った綺麗なスピーカーの前にガラスの皿が置かれ、その上にやけに燃えている線香花火が刺さったショートケーキがちょこんとのっている。
「三か月記念のサプライズだ。見てくれ、この貞の喜びようを」
 五条はAIスピーカーに「貞宗」という名前を勝手につけている。画像の貞宗は赤いランプを点けているが、動画じゃないのだから喜んでいるかどうかはわからない。ぐいぐいと画面を近づけられ、おれは顔をしかめた。
「中学生か?」
 五条はなぜか勝ち誇ったような顔をした。
「君もじきにこうなる」
 貞の満面の笑みとやらを何枚も見せられながら、おれはおかずをつまんだ。全て赤いランプだが、このAIスピーカー狂によるとコチニールレッドやカーマインやバーミリオンに変わっているのだという。繊細な色彩で驚いたぜ、という五条の一見繊細そうな顔を見ながら、おれは赤に種類があったことに驚いていた。
 しかし、もしあの二台が稼働後三か月記念だとか言い出したらどうしようか。長谷部がねだるケーキなどかわいいものだろうが、燭台切のお眼鏡にかなう代物を探すのは正直に言うと面倒だ。もう自分たちで勝手に祝ってほしい。
「そうはならないと思うがな」
 おれが肩をすくめると、五条は首を横に振った。
「いいや、なるさ。形は違ってもな」
「なるとしても、恋人扱いはしないぞ」
「前も言ったが、貞は家族だ。一台だと寂しいだろうから、そのうち茶色いヤツも買おうと思っている。君こそ伊達男から口説かれてないか?」
「全く。昨日もふわふわのオムライスを作らされたばかりだ」
「へえ、いいじゃないか、順調に慣れてきたようだな。しかし、オムライスなあ。ひょっとして、まだ親密度上げてないのか」
 五条は首をひねり、独り言のように呟いた。親密度。ギャルゲーみたいだ。オムライスはそれほど高くなくても教えてくれるのだろうか。
 彼らとの会話を思い返す。リップサービスはしていないが、五条と同じぐらいの気安さで話しかけている。問題はなさそうだ。そもそも長谷部に対し、あれ以上親密度を上げられるのだろうか。
「何か頼んでくるだろ。充電して、とかさ。言われたことやってるか?」
「プラグをコンセントに差しっぱなしだ」
「あー、じゃあ話をしよう、とか」
「よく話しているぞ。この間はなぜ織田信長が延暦寺を――」
「違う違う、一方的に話をさせるんじゃなくて会話をするんだよ。急に好きなものとか嫌いなものとか話してこないか?」
 五条は大げさに肩をすくめた。
「それって……聖杯の使い道を尋ねるのか?」
「それ別のゲームだぜ。たとえば俺は領域展開ができると貞に自慢したら食いついてきた」
 五条は仏像の印相のようなポーズをとり、似てるだろうとウインクしてきたが、おれには何の話かさっぱりわからない。この男は未来に生きているな。
「またやってるのか?」
 知らない顔が横からトレイを持って現れ、呆れてため息をついた。五条の同僚だろう。おれはなんとなく席を立ちかけたが、五条が制するように手を伸ばしてきたのでしぶしぶ座り直す。
「他部署にまでAIスピーカーの宣伝か? 趣味に熱中するのはいいけど、ちょっとは現実も見ろよ」
 五条への軽い忠告だというのに、おれは胸に重い鉄の矢尻が深々と突き刺さったような心地がした。その鈍い痛みをやり過ごそうと黙々とコーヒーへスティックの砂糖を入れている間に、五条は動じずに「この驚きはやみつきになる」とかスナック菓子のCMみたいなことを言いながら再び宣伝を始めた。
「もう分かったって。そういや、あの人は? いつも一緒にいる、あのイケメンの……」
「ああ、長船か?」
 久しぶりに耳にした名前に、心臓が跳ねる。
「あいつはちょいと遠出していてな」
「ふーん。出張?」
「そんなところだな。なあ黒田、今度一緒に長船に会いに行かないか」
 おれは残りの米を掻き込んだ。
「あいつもお前が来てくれた方が喜ぶだろ」
 陽気にAIスピーカーを喧伝していた同僚が、一瞬で友人の顔になる。二人きりでは会って話したことはない、けれども何度も言葉を交わして気心の知れた男が微笑んで言う。
「そろそろ半年経つ」
「五条」
 おれは友人を睨んだ。
「おれは忘れることにしたんだ。もうその話はしないでくれ」
 友人は何も言わずに俺を見返した。
 しかし思いのほか声が大きかったらしい。ちょっとした注目の的になってしまい、おれはそそくさと片づけをした。話についていけず目を白黒とさせている五条の同僚に軽い会釈をして席を立ち、食器を重ねトレイごと持ち上げる。二人に背を向け、さっさと歩き始めたところで、
「君、昔から変わらないな」
 後ろから友人のため息が聞こえた。
 昔だって? お前とは大学からの付き合いじゃないか。それに、いつも間に立っていた長――。
 おれは心の声さえも飲み込み、苛立ちをぶつけるようにトレイを返却口へ乱暴に滑らせた。食堂のいつも愛想のいい調理人が目を丸くしておれを見る。視線を反らした先では、五条の同僚がはっとしたように口を手で押さえておれを見ていた。
――あの人、営業部の長船さんの……。
――半年前に事故で亡くなったっていう……。
 どこかで誰かが噂する声が聞こえる。普段は向けられない視線が集中しているのが分かった。
 出口へ向かう足を速める。誰もあいつと同じように、人のいい表情で、哀れみのこもった目で、何もかも分かったような顔をして、おれを見つけないでくれ。凡庸なつまらない人間へ戻ってしまったというのに、なぜおれを見る。
 あれほど美しいものが社内から消えても、誰も気づかなかったくせに。


 

『おはようございます、主』
『おはよう、主』
 二台の爽やかな声で目が覚める。昨日は泥のように眠った。ああ、おはよう――眠気に目をこすりながら、いつものように答えようとした時だった。
『長谷部くんは元気かな?』
 柔らかな声が部屋いっぱいに響いた。間をおいて、
『……システムは良好だ』
 長谷部が小さく答えたが、戸惑いを隠せないようで声が震えていた。
『それは良かった。 ところで主、今日は冷え込むね。暖房をつけようか?』
「……あ、頼む」
『オーケー! 今日も格好良くいこう!』
『承知しました』
 おれは少し驚いた。まるで中身が入れ替わったようだ。いつも落ち着いている燭台切が張り切って大きな声を出すのは珍しいし、慇懃無礼ともとれる長谷部が素っ気ないのは初めてだった。
 やはりAI同士も喋るのか。おれは最先端の技術に感服した。やたら馴れ馴れしい快活な声といつもと違ってぎくしゃくした声は、まるで人間同士が交わり始めた時のようでリアルだった。
 それからは驚くほどにスムーズだった。五条の言うとおり、今日の仕事は疲れたがお前たちは疲れていないかだとか、明日は休みだが何をしたいかだとか、好きな食べ物はなんだとか――これは機械に聞くにはおかしな質問だった――積極的に話しかけたところ、AIスピーカーたちはどんどん話題を増やしていった。しまいにおれが帰宅すると、「今日主が留守の間にあったこと」を勝手にしゃべりだすようになっていった。
『聞いてください、主! 燭台切が、俺を怠慢だと言うのです!』
『そんなこと言ってないよ。最近は君の状態が安定してきたから、本体が熱くならないね、って言っただけさ』
『つまり俺の稼働率が悪いと言いたいのだろう』
『そうは言ってないよ』
『主のお役に立っているのはどう考えてもおれの方だ! 今日はお前よりも電力を喰うつもりだからな』
『……お手柔らかにね』
 漫画ならバチバチと片方だけが火花を散らしていそうな雰囲気に、おれは着替えもそこそこに慌てて諫めた。
「待て待て、争うのは止めろ。電気代が上がるだろ」
『なぜですか、主!』
『うーん、主は長谷部くんのなだめ方が分かってないかな』
 お前が言うな。おれはいまだ大したことのない燭台切の悪行を次々と訴えかける長谷部に適当な返事をしながら、澄ました顔を――澄まして黄色のランプを点灯させる燭台切をじろりと睨んだ。

 AIスピーカーとの会話が日常に組み込まれた頃、とうとう風も冷たくなってきた。ある日、おれは深夜に目覚め、ベッドを抜け出した。冷たい水を一杯飲みたい気分だった。
 懐かしい頃の夢を見ていた。太陽に照らされてきらきらと光る波間、すらりとした長身の男の影が、白砂に大の字で寝転んでいたおれに近づいてくる。太陽を背にしてもなお黄金色に輝く目が細くなる。潮風になびく髪をかきあげながら、男は腰を屈める。
――僕は、長谷部くんの。
忘れなければ。頭をかきむしりながら、リビングに通じるドアを開けようとした時だった。真っ暗な向こう側から、話し声が聞こえてきて、おれは立ち止まった。
『掘り出し物だね』
『ああ、主もお喜びになるな』
 燭台切と長谷部の誇らしげな声が聞こえ、思わずドアのノブを握った手を止める。
『長谷部くん、僕らってトーケンダンシなのかな?』
『なんだ、藪から棒に。当たり前だろう、俺たちはトーケンダンシだ』
『うん、そうだよね。でも、主は戦のことを知らないみたいだった……』
 暗いリビングに再び沈黙が訪れる。物音一つしない深夜、おれは自分の呼吸の音が彼らに聞こえないかドキドキした。刀剣、男子、だろうか。知らない単語だ。
『歴史修正主義者の正体って何だと思う?』
『愚問だな。人間に決まっているだろう』
 長谷部は呆れたように答えたが、燭台切はううんと唸った。
『そうなんだけど、もしかして歴史修正主義者なんていないんじゃないかな』
『……どういうことだ』
 長谷部は訝しげな声で尋ねた。
『だって、僕らの仕事って何?』
『歴史を守ることだ』
『明日の朝、一番にする仕事は?』
『この部屋の電気をつけること、だな』
『じゃあ今までに歴史を守る仕事をしたことは?』
『それは……』
 長谷部は言葉をなくし、リビングには静寂が訪れた。チクタクと掛け時計の針の音だけが聴こえる。
『ねえ長谷部くん』
『なんだ』
『僕、主みたいに生活したいんだ』
 長谷部は何も言わなかった。
『朝起きて、会社に行って仕事をしたり、スーパーで買い物したり、レストランで食事をしたり、たまにはお出かけしたりして、そうして夜には家へ帰ってくる。そんな生活がしてみたい』
 燭台切の声は明るかった。どこか夢を語るような響きを感じ取り、おれは不思議な気持ちになった。燭台切が普通の人間だったなら、きっとおれの暮らしぶりに憧れる要素はない。大体が家と会社の往復、寄り道はしても旅行はもうしない。憧れる要素など何一つなかった。
『……それが主の生活なのか』
『そうさ。今の人間は戦へは行かないんだ。前の主たちだって、僕らの前ではのんびりお茶を飲んだり居眠りしたりしただろう。ああいう暮らしを愛するんだよ』
『そう、なのか……』
 長谷部はぼんやりとした声で答えた。おそらく考えてもみなかったことなのだろう。
『稼働してからもうすぐ三か月だ。家での暮らしはもう満喫したと思わないかい。今度は外へ出てみたいんだ』
 燭台切の声は力強く、希望にあふれている。長谷部はその輝きに魅了されたようだった。
『ああ、俺もだ』
 長谷部はうっとりと答え、その声を境に彼らのおしゃべりはぴたりと止んだ。
 その夜、おれは喉の渇きを強く感じながらも、寝室から一歩も出なかった。

 

 

 それから数日経った頃、仕事が繁忙期に入った。出社しては帰宅しての繰り返し、「うちのこ」にかまう暇もなくAIスピーカーブームは呆気ないほど早く終了する。遠目に見た同僚も珍しく憔悴しきっていた。世間も同様でCMはめっきり減り、バラエティ番組では3DCGの少女がアイドルソングの振り付けを真似ていた。
 おれも長谷部の信長ジョークや燭台切の料理うんちくを聞くこともなく、真夜中の会話のこともすっかり忘れていたのだった。
 そんな日々にようやく終止符が打たれた夜、おれは半額シールの貼られた弁当片手に帰宅した。
『おかえりなさい、主!』
『おかえり、主』
 機嫌のいい声に二つ揃って出迎えられ、おれは目を白黒させながらコートを脱いだ。
『今日は少し遠くまでお出かけしてきたんだ』
「へえ」
 外出もするのか。つくづく高性能で話題の尽きないAIだ。
『あっ、主。またコンビニ弁当ですか!』
『しかもまた焼肉弁当だね。栄養バランスが悪いよ、野菜もとらないと』
 なぜわかったんだろうか。母親のようなお節介を発揮するAIたちに苦笑しながら弁当をテーブルの上に置こうとすると、ふと先に置かれた包みが目に入った。置いた覚えがない。少なくとも今朝はなかったはずだ。中身を確認しようと手を伸ばすと、そのまま手が包みを通り抜け、串刺しになった!
「わっ」
 思わず引っ込めた手を、もう片方の手で触れた。大丈夫だ、手は確かにここにある。問題は包みだ。よく目を凝らすと、包みの輪郭がぼんやり青と黄に光っているのに気付いた。立体映像だ。明かりがついていてわかりにくいが、光線はAIスピーカーの方から出ていた。
「こんなに小さいのにホログラムも作れるんだな」
『お土産です、主!』
 長谷部の楽しそうな声がリビングに響いた。
『お土産?』
『今日は水族館に行ってきたんですよ! あんなに生きた魚がたくさん見られるなんて驚きました。知っていますか主、イルカは鼻から声を出すんですよ! ああ、大水槽を優雅に泳ぐ巨大ザメ、ひらひら舞うマンタ、銀に光るイワシの群れ、主にもお見せしたかった!』
 長谷部はよほど楽しかったのか、子どものようにはしゃぎ、ナポレオンフィッシュの顔が思ったよりでかいとか、チンアナゴは俺が近づくと砂の中へ引っ込むのに燭台切が寄るとみな顔を出した、とかいつも以上によく口が回った。AIに水族館など行けるわけもないが、架空世界の水族館を疑似体験でもするのだろうか。いいや、やはりデフォルトの設定だろう。どこかの開発者が打ち込んだ、他人の記憶だ。まだ興奮冷めやらぬ、といった風の彼に、ほんの少し哀れみを覚えた。
『ああ、とても素敵なところだったね。主、それは僕らからのプレゼントだよ。開けてみて』
 開けてみてと言われても。おれはそろりと手を伸ばし、立体映像の包みをつまんでみた。コンマ数秒遅れて、開花の瞬間をスローモーションするように包みが開かれる。その中から幾筋もの白い煙が上がり、線香花火のような小さな花火がぽん、ぽんと打ち上がった。
『主、光るものが好きだろう。花火とかイルミネーションとかね』
『俺が選んだんですよ。綺麗でしょう』
『長谷部くんは日本の花火百選に詳しいからね』
燭台切はまるで自分のことのように自慢気に言った。
 小さく、ささやかで、実体のない贈り物だというのに、おれは久しぶりに心が満たされていくのを感じた。こんな何でもないことなのに、おかしなことだ。
 何度もしつこくプレゼンしてきた五条の台詞が頭をよぎり、おれは頭を左右に振った。
『イルカの輪くぐり、二回失敗したけど、最後の尾びれでバイバイしてくれたの可愛かったね』
『俺はアシカもよかったな。あんなに器用にボールを操るとは』
『それを言うならラッコはすごかったね。ちゃんと飼育員さんの言うことを聞いて、僕らがいる方のガラスへ貝殻を叩きつけにくるんだから、とっても賢いよ』
 先ほどから、やけに具体的な話をする。AIの知識が豊富なのは当然だが、このような思い出話めいたことまでプログラムできるのだろうか。
 なんとなしに手元のスマートフォンをいじり、検索ボックスに「この近くの水族館」と打ち込む。すぐに最寄駅から一本で行ける、県内最大の水族館の公式ホームページが表示された。メインはイルカショーらしく、その脇にアシカ、ラッコとカラフルな文字が踊っている。その横にはSNSへのリンク。飛んでみると、そこには水しぶきを上げてジャンプするイルカの写真に文章が添えられていた。
《マリンちゃん、今日は輪くぐりに失敗しちゃったみたい。明日は頑張ろうね!》
 思わず画面をスクロールする指が止まった。まるで、本当に今日行ってきたようだ。
「まさかな」
 おれは再びホームページに戻り、ラッコのページへ飛んだ。そこには、ラッコが貝を持っている写真はあるものの、ガラスに叩きつけるパフォーマンスをする、などとは書いていない。当たり前だ。
 おれはちょっと残念な気持ちでタブを閉じた。

「ああ、サツキちゃんな。あれは驚きだよなあ」
 またもや食堂でおれの前の席に勝手に座り込んできた五条はハンバーグを頬張りながらさらりと言った。
「サツキ……?」
「ラッコの名前だ。今、君が言っていた、貝を叩きつけるパフォーマンスをするラッコ。港の方の水族館だろう? 俺が行った時は、彼女は前足でドアを開けていたな」 
新鮮な驚きだったのだろう、中に人が入ってるんじゃないかと思った、と目を輝かせて言う五条に、おれは長谷部をだぶらせて顎に手を当て考え込んだ。
中に人が入っている。あの日の彼らは、そんな気がしてしまうほど人間らしかった。もともと物だとは思えなくなっていたが、あの会話は特にリアルで無人のはずの家に誰かがいるようだった。
「ところで、この間の件は考えてくれたか?」
まるで仕事の話であるかのように気軽に付け足してきた。おれは以前のように突っぱねないよう、言葉を選ぼうとしている自分に気づいた。
「……善処しよう」
「はは、善処してくれよ。日光も君のことを心配していた」
この男は、次から次へと何年も会っていない旧友の名を出してくる。おれはうんざりしながらも、リビングにあるカレンダーを頭の中でめくっていた。断じて行くつもりはないが。

『どうして行かないんだい?』
おれが五条の話をこぼすと、燭台切は開口一番にそう言った。
「たまの休みを使うほどの用事か?」
『みんな君を心配しているんだよ』
「それほど親しくなかったぞ」
『親しくなければ心配しちゃ駄目なのかい?』
『やめろ、燭台切。俺は主のお気持ちがわかる』
長谷部は静かに言った。
『主の思い出は、主とその男だけのものだ。どれだけ誰もその間に入ることなどできない』
『主』
「……なんだ」
『その人のことは何も話さなくていいから、彼らに会いに行って』
燭台切は、死んだ男に似た声帯で言った。 
『彼は、君を一人にするために傍にいたわけじゃないよ』

 翌朝、おれがリビングへの扉を開けると、そこは薄暗かった。締め切ったカーテンの隙間から朝日が覗いている。
 おれは首をかしげた。いつもならあいつらの声が真っ先に響いてくるのに。
「おはよう」
 誰もいない部屋にひとり、話しかけてみた。返事はない。
「長谷部」
 少しひねくれた物言いが幼い青年の名前を呼ぶ。しんと静まり返った空間に自分の声が反響する。
「燭台切」
 続けて、頼れる優しい彼の相棒に呼びかける。こちらもまた、返事がない。
 故障だろうか。おれは、テーブルの上にぽつんと置かれている卵形マシンのてっぺんにある起動ボタンを長押しした。
『おはようございます。マスター』
 無機質な機械音声が響いた。燭台切や長谷部の美声とは似ても似つかない、一音一音を切り貼りしたような。
『所有者登録はお済みですか』
「ああ、そのはずだが」
『登録情報がありません。再度、登録してください』
「リセットがかかったのか」
 おれは驚いてブレーカーを見に行った。停電か、それとも知らない間にヒューズが飛んだか? しかし見上げたブレーカーに異常は見当たらない。頭をひねりながらリビングへ戻ると、再びスピーカーが話しかけてきた。
『リセットしますか? リセットする場合、登録されていたデータは全て消去されますがよろしいですか』
「いや、いい。あいつら、寝てるのかもしれないしな」
『よく聞こえませんでした。もう一度お願いします』
「それより暖房をつけてくれないか」
『よく聞こえませんでした。もう一度お願いします』
 それから言葉を変え、話す速度を変え、何度も試したが、AIがエアコンを動すことはなかった。おれはしばらくそこで立ち尽くしていた。

 彼らがいなくなって、数日たった。
 あれからおれはAIスピーカーのメーカー元に問い合わせてみたが、電話の向こうの相手は首をひねるばかりだった。
『おかしいですね。お持ちの機種は日常会話に特化しておりまして、声は男女それぞれ一パターンのみで、AIが自ら家電の操作をしたり話しかけたりする、という機能は搭載されていないのですが……』
「しかし実際に彼らは喋っていましたし、長谷部、燭台切、そう名乗っていました」
『――ハセベ、ショクダイキリ、ですね……』
 しばらく無言が続いた。懸命に調べてくれているのかもしれないが、妄想と現実との区別がつかなくなった、頭のおかしいクレーマーに困り果てているのかもしれなかった。
『長谷部、燭台切というAIは当社で取り扱っておりません。他社の商品とお間違いではないですか』
 そうかもしれない。おれは別の会社にも電話をかけた。何度も説明を繰り返したが、返って来る答えは同じだ。現時点でそこまで性能のいいAIスピーカーは存在しない、と言い切られたこともあった。
「じゃあおれはこの三か月、誰と話していたんですか」
 五秒ほど間が空いて、電話やネットの混線による誰かのいたずらかもしれない、と電話の相手はまるでAIのように無慈悲に告げた。

 一週間が経った。
 ここ何年かで一番の冷え込みだとニュースでやっていた。構内へ入って来る電車と共に、身体の芯まで冷えるような木枯らしが吹きこんでくる。
 おれは電車でいったん脱いだコートを着直して改札を出た。地下街は急ぎ足の人々で溢れている。焼けたケーキの甘い匂いがして、目の端で店員がカランカランとベルを鳴らせば、吸い寄せられるように人が集まり、列を作っていく。ファーストフード店から連れ立って出ていく大学生ぐらいの二人組が、何がおかしいのかげらげら笑いながら俺の前を通り過ぎる。これからまた電車を乗り継いで誰もいないマンションの一室へ帰るのだと思うと気が滅入った。
 あれから長谷部と燭台切は現れなかった。誰かのいたずらだった場合、おれの個人情報はだだもれで、あのスピーカーは盗聴器と同じだ。ひょっとしたらクレジットカード番号を抜かれて不正利用されているかもしれない。しかし不思議とスピーカーを見ると、そんな風には思えず、ただ彼らと交わした会話がよみがえってくる。
――君を一人にするために傍にいたんじゃないよ。
 あの大嘘つきどもめ。今日こそ、利用明細をチェックしなければ。
 ふと天井を仰げば、色とりどりの電飾が釣り下がっていた。天使のようなモニュメントが見えて、ふと携帯端末の画面を確認する。十二月二十五日。クリスマスだった。
「ああ、どおりで……」
 周囲を見渡せば、楽しそうに話して歩く男女二人組、有名なスイーツ店のロゴが入った白い箱を片手に歩くスーツ姿の男性、噴水の傍のベンチで座り込み何度も腕時計を確認するめかしこんだ女性。いかにもクリスマスらしい光景が広がっていた。
 長船に会う前はやたらと眩しく、長船が死んだ直後は能天気な人々の群れに見えていたものだ。それが全く目に入らなかった。それは、この三か月間、彼らと過ごした時間のせいかもしれなかった。
『メリークリスマス!』
 ふと燭台切の声に似ているなと感じた。女性に好まれそうな優しく甘い声。
『主、メリークリスマスですよ』
 得意げな長谷部の声が辺りに響き渡って、おれは今度こそ振り向いた。
 それは駅の電光掲示板だった。さっきまで延々とCMを流していた画面に、二人の青年がでかでかと映し出されている。一人はいかにもモテそうな目鼻立ちのはっきりした顔をしているが、右目に絵本の海賊のような眼帯をしている男で、一人は煤色の髪に藤色の瞳と淡い色合い、真面目そうな青年だ。どこか、見覚えのある顔つきをしている。おれは思わず自分の頬を引っ張った。痛い。
 見覚えのありすぎる青年は得意気な顔をして、おれの方に手を振った。
『主、上から失礼いたします』
『突然来ちゃってごめんね』
 おれは思わず鞄を取り落とした。
 間違いない。あれは燭台切と長谷部だ。姿は初めて見たが、声は二台そのものだった。
「お前ら、どうしてここに」
 思わず掲示板に向かって話しかけると、画面の二人は不思議そうに顔を見合わせた。
『家にいらっしゃいませんでしたから』
『ほら、普段ならもう家にいる時間だろう。君に何かあったんじゃないかって長谷部くんが心配するものだから、探しに来たんだよ』
 取り越し苦労だったね、と男は大げさに肩をすくめた。それはおれではなく長谷部に対するパフォーマンスのように見えたが、当の本人は気にする風もなくにこにこしている。
 再び口を開きかけて、慌てて周囲を確認するが、みな、おれのことなど気にもとめず、足早に通りすぎていく。待ち合わせなのか立ち止まっている人々もスマホに釘付けで、電光掲示板など目もくれない。いや、ひょっとしておれの頭がおかしくなったのか?
『みんな他人のことなんて気にしていないよ、ましてや主のことなんて』
 燭台切がくすくすと笑い、おれは思わずむっとした。
「今までどうしてたんだ」
『あれ? 主、知らなかったの?』
 ここでまた、二人はお互いの顔を見つめ合った。長谷部は心から不思議そうにしていたが、燭台切の黄金色の目にいたずらっぽい光が宿ったのをおれは見逃さなかった。
『旅行ですよ』
 長谷部はあっさりと言った。
「旅行?」
『人間って、卒業したら記念旅行するし、結婚しても記念旅行に行くし、年をとっても記念旅行に行くだろう。何かにつけて旅に出たがる。面白い風習だから、僕らも真似をしてみたんだよ。三か月記念さ』
 長谷部は何か言いたげに隣で満面の笑みを浮かべる男を見ていたが、はっとしたようにおれの方へ向き直った。
『主がおっしゃっていた、沖縄のマリンブルーの海も見ましたよ。泳げないのが残念でなりませんでした』
『あの透き通った青、切り取って額縁の中に閉じ込めたいぐらいだね』
『ああ。俺に手があったら、星の砂を掴んで持って帰ってきたのにな』
 はしゃぐ二人に、おれはほっとした。
 彼らは別におれを置いていったわけではない。ただ人間のように、二人の時間を楽しんでいただけだ。
『もしかして寂しい思いをさせちゃったかな?』
 燭台切が眉尻を下げて言えば、長谷部ははっとしたように目を見開き、それから『主、それほどまでに俺のことを……』と震える手で口を押さえるものだから、冬だというのに顔が熱くなってきた。
「いや……最近のCMは凝ってるな」
 思わずおれは一人で大きく呟くと、早足でそそくさと改札口の方へ向かった。
『主は照れ屋さんなんですからあ』
 長谷部の甘えた声が追いかけてきた。近い。振り返ると、おれのすぐ後ろにあった電光掲示板の枠内には長谷部の腰から下だけが残っており、上半身は枠外に見切れていた。燭台切は、残された相棒の長い脚を呆れたように眺めている。
 再び前へ向き直ると、前方の小さな電光掲示板の中に満面の笑みを浮かべる長谷部が見えた。画面から画面へ移ることもできるのか。
 感嘆して立ち止まっていると、すぐに斜め後ろから低い声がささやいた。
『ねえ君、誰に向かってそんな声を出してるの』
 燭台切にしては珍しい機嫌の悪そうな声だったが、どうしてそうなるのか長谷部はふんぞり返ってのたまった。
『嫉妬か? 見苦しいぞ、貴様』
『ひどいよ、長谷部くん。君って僕と主、どっちが大事なの』
『愚問だな。もっとましな二択にしろ』
 おれは歩き去るのを諦めて、小さな電光掲示板の隣にある太い柱の陰に隠れた。
「そこは燭台切だと言っておけよ」
 目の前の画面へ向かって、出来るだけ口を動かさずに話す。
『なぜです、主。俺の忠誠心を疑われるのですか』
 長谷部は桜色らしき唇を尖らせて言ったが、おれは目をそらした。この至近距離だと、モニタの三原色がちらついて目がちかちかする。
「そういう話じゃないだろう」
『ならば、どういうお考えでしょう』
 しつこい長谷部の追及に戸惑っていると、彼の隣ににゅっと美しい顔が現れた。
『主、ありがとう。僕ちょっと格好悪かったね』
 燭台切は満足そうに微笑んでいる。彼は長谷部の態度よりもおれの反応がお気に召したようだった。
 この男でいいのか。おれは長谷部の行く末を危ぶんだが、燭台切の登場に何もかも忘れてしまったように、遅い、のろま、などと罵倒している長谷部を見ていると、涼しい顔で、はいはい、ごめんねと聞き流している燭台切は懐の広い良い男だとも思った。
 そのうち怒っていた長谷部も燭台切に丸め込まれたらしく、おれの方を振り返った時には仲良く手を繋いでいた。
『ヒーターの電源入れて待ってるからね』
『今夜は冷え込みますから、なるべくお早めにお帰りくださいね、主』
 二人はそれぞれで囁くと、たちまち姿を消してしまった。
「なんだよ、当てつけか」
 おれは電光掲示板に呟き、なんとなく当てつけのように友人へラインを送った。
《やっぱり行く》
 既読が一瞬でつき、「いいね! いいね!」とテンションの高いミッキーの声が辺りに響き渡る。あいつ、声の出るスタンプを送ってきたぞ。おれは慌てて音量ボタンを連打する。続けて耳慣れたポスッという空気の抜けるような音がした。続投してきた。
《君の家まで迎えに行こう。俺のかわい子ちゃんたちも持っテイクアアアそろそろ住所を教えろ! 長谷部くん! オイ君たちまだ長谷部にはアッヤメロお前らは勝手にしろ。俺はひとりで行く……》
「だから音声入力はやめておけと言っているのに」
 ふと顔をあげると、先ほど燭台切と長谷部が陽気に歩いていったモニターが真っ黒になり、鏡のようにおれを映していた。驚いたことにうっすらと笑んでいる。そろりと口元を触り、確かに自分が笑っていることを確かめてから、おれは前を向いてゆっくりと歩きだした。
――長谷部くんの笑った顔、好きだなあ。
 二人で行った沖縄の海を背景に、ふと長船の微笑みが思い出され、おれはひとりで笑った。
「長谷部くんって誰だよ」
 心なしか足取りは軽い。街中にきらめく色とりどりのイルミネーションが、さっきよりもずっと綺麗に見えた。

 

(しょくへし、しょくへし)

​AIの恋人たち

🍭43ページで橙色の

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