「穴だ」
勝手に言葉が出て、思わず自分の口を押さえた。いや、声を出したつもりは一切ない。周囲を見回したが、当然、長曽祢も千代金丸もいない。ならば俺が言ったのか?
手首を捻り、穴の中央に狙いを定め、火のついたマッチを放ると、赤い火はすうと闇の中へ吸い込まれ消えていった。
「何かの怪異か?」
鯉口に手をかける。俺は刀だ。山姥切や鬼丸国綱だけが妖を斬れるわけではない。
そっと穴を覗きこんだが、底どころか何も見えない。奈落の底という表現が頭をよぎる。まさかとは思うが、燭台切は、この中に――?
「おーい」
遠くの方で男の声がし、俺は顔を上げた。主ではないことは確かだが、布を当てたようにくぐもって聞こえ、どの刀かはわからない。
「おーい」
こちらへ近づいてきているのか、先ほどよりはっきり聞こえた。誰だ。こんな声の奴がいただろうか。
そういえば、なぜこれほど静かなのだろう。俺と燭台切が非番だといえども、他の連中は内番なり手合わせなりで忙しくしているはずだ。
刀を抜いて部屋の入口まで戻ったが、開いた襖の向こうには殺風景な中庭が広がるだけだ。左右を見回しても、ただ無人の廊下が続いている。
「おぉーい……」
今度は部屋の方から聞こえた。急いで前へ向き直るも、誰もいない。
「……気のせい、ではないな」
俺はゆっくりと刃先を穴に向けた。呼ぶ声は聞こえない。
もし穴が、トンネルのようにどこか別の空間につながっていたとしたら。この呼び声は、穴の向こうの誰かかもしれない。穴を不思議に思って、俺がマッチに火を灯したようにとりあえず叫んで深さを知ろうとしている。たとえば、燭台切が――。都合のいい想像だ。
自嘲して視線を落とせば、畳に映る俺の影が部屋の中央まで伸びている。ふと空を見上げれば、空は薄い雲に覆われていた。
俺は反射的に部屋の外へ飛び退った。曇り空で、これほど濃い影ができるか?
背筋がぞくりとして刀を握り直す。影は、俺の足下から長く伸びている。はっとして、壁を見やった。先ほどまであった真っ黒な穴は、きれいさっぱり無くなっていた。
――まさか。
影に向かって刃を振り下ろすと、瞬く間に俺の形をした輪郭がぐにゃりと歪んだ。何かを斬ったという感触は一切ない。みるみるうちに俺の形はなくなり、俺から離れて再び歪な円を描き始める。
「おーいて」
先ほどよりも声が近い。やはり穴の中から聞こえてくるように反響している。
突如、穴がぼこり、と音を立てた。鍋に張った水が沸騰するように、真っ黒い穴が波打ち、細かい気泡が次々に生まれてくる。そのたびに穴は呼吸するように伸縮した。
「おーいてー」
声に合わせて黒い水面に大きな泡ができ、弾ける。
「主に仇なす敵を目の前にして、俺が刀を置くことはないぞ」
刃先を向けるも、穴はじわじわとその面積を広げていた。
「お前は何なんだ」
「おまえはなんなんだ」
俺の声が、反響したように返ってくる。
「どうしてここにいる」
「どうして」
俺は刀を振りかぶった。床ごと切り伏せてやろうと手に力を込めた瞬間、すすり泣くような声が聞こえた。
「どうして……ない……」
やはり声は近づいてくる。俺はぎりと歯噛みした。穴は何らかの怪異に違いない。斬れば終わるはずだ。
「どうして」
その瞬間、穴は揺らめき、盛り上がり、床から徐々に立ち昇ってきた。その形は、細長く、影法師のように上へ上へと伸びていく。しかし俺の目線の高さまで来ると、成長を止めた。
刃先を突きつけるが、びくともしない。余計な部分を削いでいる。
俺だ。再び俺の姿を模していく。
「どうして俺じゃないんだ」
俺の声が言った。
はっと口を押さえ、それから目の前の黒い塊を見た。
「おいていかない……」
黒い塊の頭部に、藤色の玉が二つ並んで埋め込まれていた。それがぎょろりと俺の手元を追った時、無意識に刀を振りかぶっていた。
「置いていかないでくれ、燭台切」
ぶわり、黒い塊から発せられる殺気が膨れ上がった。
反射的に後ろへ大きく飛び退り、両手で柄を握りしめて刃先を穴に向けた。ゆっくりと後ずさりし、部屋から出る。そのまま後ろ向きで、壁に背が当たるまで廊下を進んだ。
黒い塊は入り口の手前でぴたりと静止していた。藤色の目玉はちらりと俺の方を見たが、興味が失せたように中庭の方へ視線をやった。
「お前……俺を騙るのはやめろ」
「どうせ俺は置いていかれ、やがて忘れ去られる。永遠にお傍にいることなどできやしない」
「黙れと言っている!」
「それなのに燭台切は、俺をよい刀だという」
しんと静まり返った廊下に、俺の吐く息だけが響いている。
「よく斬れると褒めそやす。俺を置いていくことなどないと言う」
目の前が明滅する。静かな部屋の隅で、半透明の膝を揃えて正座をし、足が痺れるまで待っていた日のことが思い出された。夜半、眠い目をこすりながら主の帰りを待っていた俺の耳に飛び込んできたのは、伝令による訃報だった。
「だから忘れることにした」
知らず知らずのうちに、俺は刀を下ろしていた。あの男も、黒田家の主人たちも、誰もが俺を大事な刀だと言ったが、みな最後に俺を置いていく。
燭台切は美しい刀だ。俺はあの男の隣でずっと刀を振るっていたい。しかし、その気持ちは、永劫あの男から向けられるものと釣り合わないのかもしれなかった。
「お前も」
黒い塊がぐにゃりと歪んだ。それは俺の目の前にするすると這い寄ってきて、かぱりとカバのように大きな口を開けた。口内はやはり黒一色に塗りつぶされている。
「忘れるといい。今までと同じことになる前に」
この中に包み込まれたなら、何もかも忘れることができるのだろうか。四肢がだるい。人の身を得てからというもの、頭の重さにくらりとひっくり返りそうになったことを思い出す。この肉の器は、鉄の刀であった時よりやわく脆いのに、ひどく重いのだ。
もう、このまま忘れようか。いつまでも見つからない、美しい男のことも。
「そうだ、忘れるといい……」
そっと包み込むような優しい声が、耳元で囁いた。

「いた」