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 黒い塊の中の目玉が、ぎらりと金に輝いた。その色に、見覚えがある。


――燭台切!
 

 宙に漂っていた意識を、俺はまるで綱を引くように手繰り寄せた。はっと我に返り、刀を握る。先ほどはあんなに優しく温かく見えたというのに、俺の前にはただぽっかりと穴が空いているだけだった。巨大な口腔へ、否を叩きつけるように振り下ろす。
 

「俺の刃は防げない!」
 

 すぱん、と異常なほどたやすく、黒い塊は真っ二つになった。手ごたえはない。黒は泥状になって廊下をつたい、縁側を進み、無人の庭へ降りていく。
 

 はあ、はあ、と荒くなった息を整えていると、どこからか足音が近づいてくる。耳慣れた音だった。重い革靴が地を踏みしめ、時折様子をうかがうようにとどまり、ゆっくりとこちらへ向かってくる。俺が周囲を見回し、その音の主を探している途中で、その足音は止まった。
 

「長谷部くん!」
 

 燭台切だ。声の方を向けば、男は、庭を挟んで普段は使わない離れに通じる小道に立っていた。俺を見るなり庭を突っ切り、戦場で駆けるよりも速くこちらへ向かってくる。
 

「よかった、君が無事で……」
 やってきた勢いのまま強く抱きしめられ、俺は息も絶え絶えに言葉を絞り出した。
「お、お前、今までどこにいたんだ」
 燭台切は俺の胸を圧迫していることに気付いたらしく、身体を離してから首をかしげた。
 

「長谷部くん、逆だよ。君が穴に入っていったんだ」
「まさか」
 どの口がそれを言うんだ。ははっ、と笑ってやると、黄金の目が瞬いた。
「本当だよ」
 今度は俺も笑わなかった。燭台切の瞳は、静かな怒りに満ちていた。それが俺に向けられたものではないことも、この美しい男の性分からして容易に想像できる。

 

「非番の日に君は消える。だから、今日こそは、と思って君の部屋を見張っていたんだ。そうしたら、君は出陣後、身を清めたらすぐに自分の部屋に引っ込んだ。仕方なく夜通し見張っていたけど、朝になっても君は一向に出てこない。襖に耳を当てても物音も一切しないし、僕が意を決して部屋に入ったら、君はその大きな空洞を残して消えていた」
 

 燭台切が指さした先にあったのは、あの飲み込まれそうに黒い穴だった。中庭の端に、それは頼りなげに漂っていた。けれども、もう形も目玉も口もなく、最初に見たような小さく平坦な穴に戻っている。
 

「あいつのせいだ。……始末しなければ」
「放っておこう」

 

 鯉口を切った俺に、燭台切はよく通る声で言った。俺は拍子抜けして、あまりにいい加減な助言に物申そうかと口を開きかけたが、男に手で制された。
 

「僕らは何でも斬り捨てようとするけれど、斬らないことだって一つの選択だ」
「刀なのにか」
「ううん、刀だからこそだよ」

 燭台切は帯刀していなかった。暗い部屋の中で、黄金色の目が静かに瞬いた。
 

「その穴はそこへ置いておこう。けして斬らなくていい」
 

 俺は燭台切の言う意味がよく分からなかった。あの穴は、消えた方がいいものだ。燭台切が背を向けた瞬間に、俺は注意深く足を進め、黒い残滓に向かって刃を振り下ろそうとした。刀を握る俺の手首を、強い力が掴んだ。
 

「やめてくれ」
 

 燭台切の手だった。指先がやや日に焼けた、白い手だ。格好を気にしているくせに、どこかに黒い革手袋を置き忘れてきたらしかった。
 

「その穴は、埋めなくていいんだ」
 諭すような声色に、俺はフンと鼻を鳴らした。

 

「埋めるんじゃない。斬るんだ。細かく刻んで、二度と俺の前に現れないよう灸をすえてやる」
「余計よくないよ。それなら、たとえば花を植えるだとか、何かきらきら光る宝石を詰め込んでみてもいい。そうやって埋めようと試みる人もいるから」
「あの穴をか?」
 俺が指をさすと、黒い穴は奇妙に震えた。それを黙って眺めながら、燭台切はゆっくり首を横に振った。
「似たようなものに、僕もやってみたことがあるんだ。失敗したけどね」
「お前も失敗することがあるんだな」
「あるよ。人の子だからね」
 刀のくせに妙なことを言う男だ。俺が穴を睨みつけていると、燭台切はふふ、と愉快そうに片手で口を覆った。
「刀のくせに、って思った?」
 図星だ。俺はどきりとしながらも、平静を装ってそっぽを向いた。
「お前に俺の心などわかるものか」
「……うん、そうだね」
「認めるのか? 俺が嘘をついているかもしれないのに」
「君の言っていることは間違いじゃない。きっと誰も、他人の心なんてわからないよ」
 燭台切の静かな声に、俺は空気が変わるのを感じた。燭台切は再び庭の隅で風に吹かれて舞う穴をちらりと見た。


「君もきっと、僕のことが分からないよ」
 燭台切はそっと眼帯に覆われた右目を片手で押さえた。眼帯に覆われた。眼帯――ではない。その正体を認めた時、喉の奥がひゅうと鳴った。


 それは穴だった。しかしさっきのものとは、形も色も、まるで違う。眼帯のふちはゆらゆらとして、まるで眼窩からはみ出した黒い炎が揺らめいているようだった。ただその中ががらんどうであることだけが、共通していた。
「わかる?」
 燭台切の問いかけに、俺は頷いた。
「ああ、わからない」
「わからなくていいよ」
 燭台切の眼差しは優しかった。俺の心の中の、何もかもを見透かされているような気がした。
「お前もそれを隠していたのか」
 燭台切は頷き、ようやくいつものように微笑んだ。誰に対しても同じように、施される笑みだった。
「やっとお前に会えた気がするよ」
「僕もだよ」
 言葉と同時に、目の前へ白い手が差し伸べられた。
「僕の部屋にも、来てくれるかい」
 男は、君の部屋より少し物が多いけど、とはにかみながら付け足した。きっと、仲間の誰かから役に立たない物をもらっては、綺麗に並べて飾っているに違いなかった。
 俺は何も言わずに、少し汗ばんだ大きな手のひらを掴み取った。その手を取らない理由が、もうなかったから。

 


 半日後、俺は身一つで燭台切の部屋に移った。燭台切はあの芝居がかった仕草で大きく腕を広げ、「ようこそ、長谷部くん」と言った。俺は嬉しくて、その腕の中へ勢いよく飛び込み、燭台切は手入れ部屋へ行くことになった。事の顛末を知った鶴丸が大笑いしていたので、ついでに手入れ部屋に押し込んでおいた。それを見た本丸の連中は、なぜか俺を「変わった」と評した。何も変わっていないというのに。


 俺の部屋に穴があることは周知の事実となった。本丸の刀どもは、探検だ掃除だお祓いだと言ってその穴の周りで遊びまわっていた。ただ、そこにいる誰もが、この穴は何かと尋ねない。それが心地よくて、俺もときどき燭台切と訪れては、ゆっくりと心ゆくまで眺めていた。二人きりになってから、穴のふちに触れて痛いとこぼすと、燭台切も右目を押さえながら頷いてくれた。
 

 しばらくして、最愛の初期刀が折れたことで長く塞ぎ込まれていた主が、ようやく立ち直られた。同時に、俺たちは出陣や内番で忙しくなる。だんだん話題はその日あったことに取って代わられ、非番の時でさえも穴のことを思い出さなくなっていった。
 

 やがて、俺の部屋で遊ぶ奴もいなくなり、俺たちもかつての自室などではなく、どこかへ出かけるようになった。遠征先で見つけた秘境の小さな滝、二二○○年代の遊園地、織豊時代の城下町。燭台切はどこへ行っても俺の手を引いて開拓してゆき、終わりになると今度は俺が男の手を引っ張って連れ回した。おかげで夜はぐっすり眠れるよ、とは燭台切が毎度帰りにつぶやく言葉である。

 

 ある夜半、燭台切の眼帯をとると、そこに穴はなく、ただ瞼が閉じられていた。長い睫毛が艶やかだ。俺は吸い寄せられるようにそっと口づけた。
 燭台切はぱちりと目を開けたが、俺の顔を見ると微笑んでくれた。右目は、焦点が合っていないものの満月のような黄金色だ。
 「穴がないな」と言うと、男は「そんなの元からないよ」とおかしそうに笑った。それから、訝しむ俺に辟易したのか「もしあったとしても、今はないよ」と付け足した。
 燭台切は穴のことなど、すっかり忘れているようだった。俺は自分の穴がどうなっているか気になった。

 

 明くる日、俺は久しぶりに自室へ向かった。部屋は埃っぽく、鼻と口を手で押さえながら天井から床まで見回すと、壁の隅に穴はあった。けれども、ねずみ専用といってもいいほど小さい。
 俺は穴のふちを撫でてみたが、指にざらざらとした感触が伝わるだけで、どこか拍子抜けするようだった。底の抜けるような深い悲しみも、燃え上がるような憎しみも、さっぱり湧き上がってこなかったのだ。

 

 そして今、燭台切の部屋では、磨かれた武具が壁にかけられ、箪笥には奴のコレクションとやけに洒落た俺の衣服が仕舞ってあり、文机の上には主から賜った書類が山積みになっている。刀掛けは、床の間に二つある。
 かつての俺の部屋は、穴ごとどこかに消えてしまった。

(とっぴんぱらりのぷう)

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